あの日のことばを探し続ける

あの日こころを動かした、拾ったきりの思い出、忘れられない誰かのことば、感じたままに、綴ります。

物事は俯瞰して見るべきだという、狭義的な教え

意識高い系の人たちが言うことばは、たいてい循環的に矛盾している。

循環的に矛盾。

このように難しい言葉をわざと使う時点ですでに意識高い系なのだが、つまりそっくりそのままお返ししますということだ。
あなたの言っていることは教科書的には正しいのかもしれないし、あなたの言っていることは正しいのかもしれないけれど、
あなた「が」言っているというのがおかしい。

何を言っているのかではなく、誰が言っているのかで、この世の正義は判断される。
人間はそのようにできている。論理よりも、感情で動く。
そんな簡単なことが未だ分からないような意識高い系様がたくさんいるから、この世の中は生きずらくて仕方ない。

「どうしてそんな簡単なことが分からないんだ」と嘆く意識高い系様は、論理的には正しいが感情的に受け付けないという一般大衆の知能の遅れを前に大衆を欺き見下すことで、
ますます自分が孤立していく環境を作り上げていく。
そうしていざ孤独になると、「どうしてあいつらはそんな簡単なことが分からないんだ」とまた嘆きだし、悲劇のループに入ることとなる。

そんなことより、てきとうに妥協してみんなとわいわいパフェを食べているほうが人生楽しいのに、だ。

意識高い系様はどうも、群れる量産型になることを嫌うらしい。
承認欲求の塊だ。

承認欲求が悪いことではない。それは人間の高次に持つ本能的なものなのだから、別に持ってることが悪いわけじゃない。

ただ、「意識高い系が」承認欲求を持つことが悪いだけだ。
彼らが自分を認めてもらおうとあれこれ振舞う様子は、見ていて痛い。ただそれだけのことだ。

群れから離れようとする者がいると、群衆からは滑稽に見られ、しかし離れようとする者は群衆を滑稽に見る。
お互いがお互いを、遠くを見るような目で嘲笑っている。
どちらも一緒なら、みんなと一緒にいて楽しいほうが良くないか。

と言ったら、「みんなと一緒じゃだめなんだよ」と言い返されたことがある。
紛れもなく、僕の父だ。

「みんなと一緒じゃダメだ。ちゃんと勉強して、ちゃんと大学行って、ちゃんと就職して自立しなきゃダメだ。」

ちゃんとの定義がよく分からないけど、大学行って就職すれば自立していることになるらしい。
ということで、日本のみんなは良く自立している。

でも考えてみれば、別に自立なんかしていなくても、大学行かなくたって就職しなくたって、人生を楽しく生きる方法はたくさんあるんじゃないだろうか。

そりゃあ、お金が無ければ服も食べ物も買えないし、お酒なんかの高級品も嗜めない。
東京カレンダー的生活で俺たちの時代を作ることもできないかもしれない。

でも、僕らが本当に欲しているものって、好きな仲間に囲まれて毎日笑顔で過ごすこと、
ただそれだけなんじゃないか。

今日1日、何回笑っただろうか。
無心で仕事をこなして、そのまま家に帰って寝るよりも、
愚痴をこぼしながら仕事して、同僚と愚痴を言いながら居酒屋で無駄話に笑いを咲かせるその時間が、本当は幸せなんじゃないだろうか。


“将来を見なさい。自分のこれからの時間をちゃんと考えて、嫌でもきちんと仕事して我慢して貯金しなさい”

誰かがそう囁いた。

そんなの絶対いやだ。
これからの人生を俯瞰して考えろという狭い考え方を、その循環的な矛盾を、君は一生やってればいい。

僕はただ、笑いたいんだ。
みんなと一緒に笑える時間を過ごすことが、何よりも誰よりも欲しいだけなんだ。