あの日のことばを探し続ける

あの日こころを動かした、拾ったきりの思い出、忘れられない誰かのことば、感じたままに、綴ります。

大人になるということ (1/2)

新成人のみなさま、成人おめでとう。

さぁ、もはや何がおめでたいのか分からない。
17歳を超えた辺りから「大人になんてなりたくない!」と言い始める一般的な日本人に対して何をおめでとうと言っているのか。
こっちは死にたいくらいだ。


別にどうでもよいけれど、とりあえず立場的に何か言葉をかけなければいけない。
ありがとうも意味わからないし、謝るのもなんかおかしいし、
新成人になって良かったねなんて突き離して言った暁にはにちゃんねる (現ごちゃんねる)で炎上しかねないので、とりあえずおめでとうが無難でよいだろう。だから

「新成人のみなさん、成人 (になっても別に人生何も変わるわけじゃないし今まで通りつらい毎日が続くからおめでたくないけれど、立場上何か言葉をかける必要があり、ハレの日を迎えたことを祝う必要があるから、最も無難なことばとして) おめでとう。」

という事である。
市長さんも大変だ。5,000兆票獲得してもぜったい市長なんてやりたくない。


成人の日といえば1月15日だった気がするのだが、今年は気が付けば1月8日になっていた。
連休を増やすためには日付指定を厭わないということは、つまりは記念日なんていつでもいいのだ。
よってもっと休日を量産すべきである。未成年の日も作ろう。
365日を記念日にすれば、365日が祝日になるんだ。

子供の頃そう夢を見て、そうして休日が増えぬまま、僕も大人になった。

そう、大人になった。たぶん。


大人になるって、どういう事だろう。

身長が160 cmを超えてからか、体重が50 kgを超えてからか。
働いてお金を稼ぐようになったら大人なのか。
扶養控除を離れたら大人なのか。
それとも、人を好きになって恋愛をして、大人になっていくのだろうか。

どこかで人を区切るには、年齢はもっとも平等だ。
誰もが一年ずつ歳をとり、一年たったら1歳増えるように法律か何かで決まっている。

騙すこともできないし、避けて通ることはできない。

年齢で区切ってしまえば、他の何も考えなくて済む。
知能とか経験とかスキルとか立ち振る舞いとか、ステータス云々を考えて人を仕分ける必要がない。

めんどうだから、僕らは年齢を使う。
20歳以上は、誰がなんといおうと大人なのだ。


本当に、それでいいのか。